杉藤園 · 水見色の記録
安倍茶から本山茶へ
静岡の奥の山でつくられるお茶には、長いあいだ、自分の名前がなかった。山から海へ流れ下る川の名をとって、人はそれを「安倍茶」と呼んでいた。

歌川広重「東海道五拾三次之内 府中 安部川」(1833年頃)。メトロポリタン美術館所蔵、パブリックドメイン。
茶どころが広がって
幕末から、静岡の各地に茶畑が広がっていった。新しい産地が次々に生まれ、「静岡茶」という呼び名が指す範囲は大きくなった。
山の古い茶園の人たちにとって、それは困ったことだった。県内でいちばん古い歴史を持ち、川霧の立つ急な斜面で育てたお茶が、ほかと同じ大きな名前でひとくくりにされてしまう。
清沢の茶農家
新しい名前を付けたのは、幕末に藁科川上流の清沢村(いまの清沢相俣)で生まれた茶農家だとされる。茶づくりの研究に打ち込み、明治天皇にお茶を献上するほどの腕前だったという。
1917年(大正6年)、その人が清沢で育てたお茶に付けたのが「本山」の名だと伝えられる。本場の山のお茶、という意味である。
名前は根づいた。いま本山茶といえば、安倍川と藁科川の上流でつくられるお茶のことで、静岡県の三大地域ブランド茶のひとつに数えられている。川霧に包まれて育つ葉は薄く、色は鮮やかで、ここでは「山の香り」と呼ばれる香りがある。
私たちの場所
水見色は藁科川の側、清沢から少し下った谷にある。私たちのやぶきたは本山茶で、ふだん使いのラインとして考えているお茶だ。
出典:本山茶について/本山茶とは/本山茶の特徴と歴史。名付け親は多くの資料で「築地光太郎」とされるが、姓を「筑紫」と書く資料もあり、呼び名が使われ始めた時期も資料によって異なる。ここでは多くの資料が共通して伝える内容を書いた。