「深呼吸しなさい」
緊張したとき、疲れたとき、必ず言われます。
その理由として、たいていこう説明されます。
「たくさん息を吸えば、それだけたくさん酸素を取り込めるから」
一見、当たり前に聞こえます。
でも、呼吸の生理学を見ていくと、この説明は正確ではないことが分かります。
大事なのは吸う量ではなく、回数でした。
まず、呼吸の量はどう決まるか
1分間に肺を出入りする空気の量を分時換気量といいます。
計算式は単純です。
▼ 分時換気量の式
・分時換気量 = 呼吸数 × 一回換気量
・呼吸数を減らすなら、一回の量を増やす必要がある
・そうしないと、体内の二酸化炭素が増えて、脳が「もっと吸え」と命令を出す
つまり「ゆっくり呼吸する」とは、回数を減らして一回を大きくすることです。
「ゆっくり」と「たくさん」は、対立する話ではありません。
鍵になるのは「死腔」という考え方
ここがこの記事のいちばん大事なところです。
吸った空気のすべてが、酸素交換に使われるわけではありません。
死腔(しくう)とは、吸っても酸素交換に使われない空気のことです。
▼ 死腔の2種類
・解剖学的死腔:鼻・のど・気管に留まり、肺胞まで届かない空気
・肺胞死腔:肺胞には入ったが、血流が乏しくて交換に使われない空気
ここから重要な帰結が出ます。
口や気管の容積は、一回の呼吸ごとに必ず埋まります。
浅く速く吸うと、その分だけ死腔の割合が大きくなります。
吸っているのに、届いていない。
この研究について
Russo et al.(2017年、Breathe誌/欧州呼吸器学会)は、健康な人における「ゆっくりした呼吸」の生理学的影響をまとめたレビューです。
▼ レビューの範囲
・対象:健康な人
・扱う領域:呼吸器系・循環器系・心肺連関・自律神経系
・焦点:横隔膜の活動、換気効率、心拍変動、圧受容器反射など
わかったこと
呼吸数を上げても、換気の効率は良くならない
呼吸数を増やしても換気効率は改善しない。死腔が増えるためである
速く吸うほど効率が上がる、ということはありませんでした。
むしろ死腔の割合が増えて、無駄が大きくなります。
呼吸数を下げて一回を大きくすると、効率が上がる
呼吸数を減らして一回換気量を増やすと、肺胞のリクルートと拡張によって換気効率が改善し、肺胞死腔が減少する
普段あまり使われていない肺胞まで空気が届き、動員されるということです。
同じ「たくさん吸う」でも、ゆっくり吸ったときだけ効率が上がる。
最適は毎分6呼吸だった
毎分6呼吸が、肺胞換気の改善と死腔の減少において最適だった(動脈血酸素飽和度の上昇、呼吸努力の持続性の両面で)
自発呼吸、毎分15回、毎分6回、毎分3回を比較した研究の結果です。
健康な人でも、慢性心不全の患者でも、同じく6回が最適でした。
毎分6回とは、1呼吸に10秒かけるペースです。
3回まで落とすと、今度は努力が大きくなりすぎます。
息苦しさへの過剰反応が和らいだ
毎分6呼吸では、高二酸化炭素・低酸素に対する化学受容器反射が、自発呼吸や毎分15呼吸と比べて低下した
化学受容器反射とは、二酸化炭素が増えたときなどに「もっと吸え」と呼吸を強制するしくみです。
これが過敏だと、少しの負荷で息苦しくなります。
ゆっくり呼吸は、この過敏さを下げていました。
毎分6回は、心臓のリズムとも一致する
心拍のゆらぎ(心拍変動)を周波数で分析すると、約0.1Hzに特徴的な波があります。
0.1Hz = 毎分6回です。
血圧を調整する圧受容器反射のリズムと、毎分6呼吸が重なる。
呼吸と循環が同じリズムで噛み合うということです。
結局、「深呼吸で酸素をたくさん」は正しいのか
判定を分けます。
▼ 「深呼吸は酸素をたくさん取り込める」への判定
・理由の説明としては不正確
吸う努力を強めれば酸素が増える、という理解は換気効率の実態と合いません
・ただし「ゆっくり深い呼吸が良い」こと自体は支持される
ただし効く理由は「たくさん吸えるから」ではなく、死腔が減り、反射が整い、循環と噛み合うからです
・決め手は「量」ではなく「回数」
速く大きく吸うのではなく、ゆっくり吸って、ゆっくり吐く
よく言われる「大きく息を吸って!」は、速くやると逆効果になりうる、ということです。
この結果をどう読むか
① レビューであり、単一の実験ではありません
複数の研究をまとめて解説したものです。統計的に統合したメタ分析ではありません。
② 論文自身が「研究がまったく足りない」と書いています
原文にははっきり「この領域にはさらなる研究が切実に必要」とあります。
確定した話として扱うべきではありません。
③ 対象は健康な成人です
子どもや高齢者、疾患のある人に同じ数字が当てはまるかは別の話です。
④ 毎分6回は「最適」であって「唯一の正解」ではありません
個人差があり、常にこの呼吸をすべきという意味でもありません。
CeD Laboの視点
呼吸は、1日に約2万回する動作です。
これだけの回数を繰り返す動作で「効率」が違うなら、積み上がる差は小さくないはずです。
そして今回いちばん面白かったのは、努力の方向が逆だったことです。
息苦しいとき、人は速く吸おうとします。
でも速く吸うほど、死腔の割合が増えて効率が落ちる。
頑張るほど届かなくなる。
体の使い方には、こういう「力むと逆効果」の構造がしばしば出てきます。
姿勢もそうでしたし、体幹の圧もそうでした。
呼吸もまた、うまくやろうとする努力そのものが邪魔をする領域なのかもしれません。
論文情報
・タイトル:The physiological effects of slow breathing in the healthy human
・著者・発行年:Russo MA, Santarelli DM, O’Rourke D. 2017
・掲載誌:Breathe 13(4): 298–309(European Respiratory Society)
・DOI:10.1183/20734735.009817
・エビデンスレベル:★★(ナラティブレビュー・健常者対象・メタ分析ではない)
・注意:論文自身が「さらなる研究が切実に必要」と明記しています。確定した知見として扱わないでください。
本記事は研究論文の要約・解説であり、医療上のアドバイスではありません。
症状がある場合は医療機関へご相談ください。